お伊勢参り

願いは突然叶うことがある。
まだ行ったことのない、そして最近とっても気になっていたところ、伊勢神宮にお参りする機会を得た。
目的はほかにあったのだが、いずれにしても初のお伊勢参りとなる。
前日に、お参りの順序を詳しい知人に尋ねようと思っていたら、先方から別の用事で電話があり驚いた。
正式は、まず鈴鹿市にある、猿田彦大神を祀る全国2千余社の本宮であり、伊勢国一宮として日本最古の神社である椿大神社にお参りするということだったが、それは時間と場所関係で残念ながら無理だったので、次回にお参りすることにして、まずは禊(みそぎ)を行うべく二見浦に。
この二見浦も、場所が伊勢神宮よりも先に位置していて、観光タクシーなどでは最後に回るようになっていた。
名古屋から2両編成の「快速みえ」に乗り込み80分の長い電車旅となる。
ほとんどのお伊勢参りと思しき人たちが伊勢市で下車していったが、「こっちは正式参拝の道を行く!」とばかりに、閑散とした二見浦の駅に降り立ち、旅館や赤福の出店がひっそりと建ち並ぶのに、ほとんど誰も通らないような道を抜けて海岸通りに出た。
古来より、伊勢神宮に参拝する者は、その前にここで禊を行うのが慣わしだったそうで、無垢塩禊いといって、二見の海で採れる海藻で体を清めたそうだ。
とりあえず、お参りする。
ここは二見御玉神社といい、天照大神がお隠れになったと言われる天の岩戸もあり、ここそこで手を合わせながら叙序に厳粛な気持ちになる。
有名な夫婦岩は、沖合7百メートルに鎮まっている御玉神石を拝する鳥居の役目で、注連縄(しめなわ)がかかっており、年に三回張り替えられる神事が行われる。(5月5日・9月5日・12月14日)
禊を行う意味のお参りが済むと、ターミナルまでは何故かビルの中を抜けるようになっていて、そこは土産物店が並び、とたんに現実の喧噪の中へと戻される。
せっかくの禊が、また俗っぽいものを纏った感じさえした。
外宮までタクシーで行こうと思っていたが、一応バスの時間を見てみたら、なんと1時間に1本しかないバスの時間が数分に迫っていた。
歩道橋を駆け上がり、滑りこみでバスに乗ることが出来て、「ああ、やっぱりいいことがあった」などと、単純に喜ぶ。
不思議だったのは、内宮までが650円のバス代が、その先の外宮までが450円と安くなっていたことで、正式参拝をする心がけのものにはあくまでも優しいらしい。
バスの中から見る伊勢は、今年一番の晴天、真っ青な空の下では冬枯れの田圃も暖かいセーターのように感じられた。
京都でもなく、奈良でもなく、まして都会でもなく、広島に似ている風もない。
しいて言えば、以前知り合いに案内してもらった岡山の古墳群のある雰囲気か、出雲大社までの風景に似ていたかもしれない。

木が纏っている布の意味を尋ねた外宮の守衛さんや帰りに乗ったタクシーの運転手さん、触れあった人の全てが、人懐っこく優しく、説明好きで、この伊勢に住んでいることに誇りを持っていることが会話を通して伝わってくる。
一度訪れた人が何度もお参りしたくなる理由は、きっと神宮そのもののためだけではないのだと思う。
伊勢神宮(内宮・外宮)のことを詳しく書こうと思うと、大変な長さになってしまうので省略するが、外宮(豊受大神宮・とようけだいじんぐう)、内宮(皇大神宮・こうたいじんぐう)にお参りした際に、人の多い場所では普通の神社とさほど変わらないのに、人が少ない別宮へ入った途端に周りからの強い気を全身に感じることができた。
ツアーでお参りする人の目的は、以前の私もそうだったように、伊勢神宮にきたという思い出作りなのかもしれないが、神社へお参りをするという気持ちを厳粛に強く思い、自然と鳥居をくぐる時の礼だとか、歩く位置だとか、だんだんと備わってきた一連の作法を守ってお参りをすると、帰る際に振り返って一礼をする時には、清々しい気持ちになっている。
中には、木や石に気を感じるべく手をかざしえみたり、横のほうでなんやら儀式めいた動作で祈っていたりする人もいて、興味深い光景にも出くわした。
河川工事のために五十鈴川は汚れていたが、川岸で手を洗っていたら、昔からずっと行われていたお伊勢参りの人々の様子が浮かんでくるようだった。
内宮では特にお願い事をせず、「ただ、今ここにいることを感謝する」ということを、帰りにタクシーの運転手さんに聞いたが、この日は本当に自然な気持ちで感謝という気持ちが湧いてきた。
「困った時の神頼み」も日々の感謝があってこそなんだろう。
次回訪れる時は、近くに宿泊して朝早い時間にお参りしたいと思った。
そうすれば、伊勢神宮の真髄に触れることが出来るような予感がする。
全ては静寂の中にひっそりと横たわっているのだろうから。
まずはそれに気がつくことから始めなければならない。
やっぱりお伊勢参りは沢山の思いを届けてくれた。