道の先にあったもの−バンクーバーオリンピック観戦記―1

イタリアの巨匠フェデルコ・フェリーニの代表作である「道」(1954年)を観たのは、2年ほど前のこと。
ずっと昔に観たことがあったのだろうけど、その頃は良さが分からず記憶になかった。
力自慢の大道芸人ザンパノと、彼に買われたジェルソミーナの悲しい物語だ。
ザンパノは悪、ジェルソミーナはその対極にあるものの存在として描かれているようにも思えるが、もう一人の重要人物であるサーカスの綱渡り芸人の出現で、関係は複雑になる。
全ては、ラストで明らかになり、人生の哀愁を深く胸に刻まれる。
哀しい結末ながら、ザンパノの慟哭で全ての罪を許すイエス・キリストの愛さえ、私たちはそこに観ることができるのだ。

バンクーバー五輪の前半のハイライト、フィギュアスケート男子シングル高橋大輔選手のフリーの曲が、この「道」だった。
このプログラムは、去年の大会から何度か観ているが、今回のオリンピックの演技が自身も話しているように、もっとも感動的で、素晴らしいものだった。
「道」を観たことがある人なら、このプログラムの流れの中で、映画の場面がどう表現されているかという楽しみもきっと堪能できたはずだ。
フィギュアのフリー演技では、「椿姫」「カルメン」など、ストーリーを演じる中で最高の技を見せるというプログラムもあったが、多くは、曲のイメージに合わせて、綺麗に技を決めることによって、より印象深いものにするという意図で演じられていた。
音楽の持つ力を最大限に利用して、情感あふれる演技はもともと高橋の得意とするところではあったが、さらに今回の「道」ではそれが芸術の域に達した。
高橋の代名詞である華麗なステップも、力強い自信に満ちたジャンプも、ころころと変わる表情も、指の先からつま先まで全身での表現が、会場にいた人だけではなく、テレビで観ていた多くの人々を、彼の演じる「道」の世界へと引き込んだ。

高橋は、大道芸人ザンパノの狂気と悲しみ、綱渡り芸人の道化ぶり、ジェルソミーナの愛と哀愁、全てを見事に演じ切った。
拘った4回転の失敗ジャンプさえも、そのプログラムの一部と思うような出来だったと思う。

そのほかに目を転じると、金メダルのライサチェックは無難に金を取りに行った演技で、一生懸命さとミスのない完璧さに凄みはあったものの、アスリートとしての感動を届けてくれたに留まった。
銀メダルのプルシェンコに至っては、何をやっても無難にまとめたのかもしれないが、4年前の力強さも華麗さも影を潜め、まるでネームバリューのみで高得点を得たという印象は否めない。
その自覚さえないナルシスト的な態度にはげんなりしたし、その後の四回転ジャンプをめぐる舌戦などは言語道断だ。
ロシアの国事情で(法外な賞金や年金)メダルの色に拘るのは仕方ないにしても、自分の最高のパフォーマンスをしての結果、ということを忘れているようで、いささか後味が悪かった。
それに比べて日本の織田は、靴紐がほどけるという前代未聞のアクシデントがあって、本来の実力は出し切れなかったが、却ってその後の必死の演技に強烈なインパクトを残した。
小塚は、まだ試合では一度も成功したことのない4回転ジャンプを本番で成功させたり、高速スピンで会場を沸かせたり、SPの初々しい演技も含め、その精一杯の頑張りは心を打つものがあった。
4年後は、小塚がきっと主役の一角を飾るに違いないという予感さえした。

高橋は、初めてとはいえ、メダルを狙える位置にいたトリノ五輪では力を出し切れずに8位に終わり、雪辱を果たすべく、バンクーバー五輪を目指した。
目指す途中で、スケーターにとっては致命的な足の怪我をし、過酷なリハビリを経て、この舞台にギリギリのところで立つことが出来た。
フリーの演技終了の時、アナウンサーが「全ての道はバンクーバーに通じていた」と後世に残る名台詞を語ったが、まさに、苦難の道があってこそ、あの「道」が演じられたのだろう。
苦労はやっぱり人間を大きくする。
そんな今更のことを再認識させてくれた、感動的な高橋の銅メダルの演技だった。
贅沢な願いかもしれないが、高橋に4回転ジャンプを失敗に終わらせたのも、スケートの神様の意図だったとしたら、もう一度前を向いて進む彼と一緒に、私たちにも再び夢を見せてもらえるかもしれない。
次の五輪での完璧な演技とその先の金メダルという。