「悪人」を読んで

 

大好きな作家のひとり、吉田修一の新作「悪人」を読んだ。

とにかく、読み始めたらすぐその世界に入り込み、没頭して一気に突っ走った。

そして、唸った。

巧いなぁ・・・。

自信を持って人に薦められるレベルの高い小説だと思った。

強くそれを感じたのは、今の私にとってもタイムリーな内容だということもあると思う。

 

悪人 吉田修一

出版社: 朝日新聞社出版局 (2007/04)

 

なぜ、もっと早くに出会わなかったのだろう――携帯サイトで知り合った女性を殺害した一人の男。再び彼は別の女性と共に逃避行に及ぶ。二人は互いの姿に何を見たのか? 残された家族や友人たちの思い、そして、揺れ動く二人の純愛劇。一つの事件の背景にある、様々な関係者たちの感情を静謐な筆致で描いた渾身の傑作長編。 (アマゾンより)

 

本の帯

『「新聞連載小説とはかくも面白いものだったのか!」

 様々な視点を交代させて高速回転する万華鏡のように進む物語。

 その全体を上から見下ろす視点はない。

 作者は登場人物たちの行き交う道を自ら移動しつつ彼らの姿に目を凝らす。

 実のところ、したたかな「悪人」である作者の視線は常にク−ルで時に意地悪だ。

 だが、その「悪意」に、普通の人たちを上から温かく見守っているつもりの知識人の「善意」のような嘘はない。

言い換えれば、それは誰もが善人であり悪人でもある現実をじっと見詰める正真正銘の作家の視線なのだ。』

 

 

私はこの本を読んで何でこんなに惹かれるのかをしばらく考え込んでしまった。

そして、その本の出来事を反芻し、自分の思考と当てはめたりしてみたが、なかなか腑に落ちるまでにはいたらなかった。

上京の予定をこなしながら、たくさんの人と話したりしているうちになんでこうまでガツーンときたのかが、だんだん明確になってきた。

 

悪と善。

 

帯にもあるように「善人であり悪人でもある現実をじっと見詰める正真正銘の作家の視線」と吉田を評したが、吉田は、善と悪そのもののくくりを持たない作家であると感じる。

本当は善や悪そのものがないのかもしれない。

彼自身そう思っているのかもしれない。

でも、それでは小説にならないのだ。

起きる出来事の意味を表現することが物書きだとしたら(たぶん私はそう思う)善悪というくくりはそれなりに必要だと思う。

しかし、誰にでもあるこの善悪、そして視点を変えれば相手の価値観、瞬間の感情で、善は悪に、悪は善に変わりえるのではないだろうか。

 

「実際自分で経験しなくても、見たり聞いたりすることが疑似体験となる」とある人から聞いて、これが今の自分の助けになっている。

そして、善悪とは人それぞれの物差しで計られ、決定されていくものだということが実感できた。

だったら、そんなものないんじゃないか?

なくたっていいんじゃないか・・・って。

「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がある。

「自分自身に関わりのないことだからそんな呑気なことが言える」と思う人は多いだろう。

それとは違った意味で、自分の中にある善と悪の物差しについて深く考えさせられる小説だった。