夏休みの思い出―1

長州(山口)の女と、福島(会津)の男が江戸(東京)で知り合い、男は故郷に彼女を将来の伴侶としたい旨を伝えに連れていく。
革新的な長州はさておき、封建的な会津の親戚は大反対。
半ば駆け落ち状態で二人は結婚する。
そんな経緯で生まれた子どもたちにとって父方の田舎は、祖父母が生きているうちは疎遠だった。
夏休み、同級生が田舎へ行く間、子どもたちは毎日ラジオ体操のカレンダーを首から下げて、一日も欠けることなくスタンプを押してもらう。
それが、なんだか自慢でもあり、寂しくもあった。
父の実家は、いわゆる大百姓で(決して庄屋さんではなく)隣の家はしばらく歩かないと辿り着かないような家だった。
初めて祖父のお葬式でそこに行った時、ちょうど雪が降っていて、一番近い駅からタクシーに乗ったものの、「これから先は勘弁してください」と会津弁で申し訳なさそうに断られ、母とまだ幼い二人の子どもは暗い雪道を心細い足取りで進む。
どのくらいで辿り着くのか見当もつかず、遠くで小さな灯りがチラチラ見えた時、母は喜びのあまり泣いていた。
母の泣くのは、数えるほどしか見たことがなかったので、いまだにその時の表情を鮮明に覚えている。
寒くて、心細くて、遭難すると思ったらしい。
それからは、何回か兄と二人で夏休みに1週間くらい滞在した。
うちらにも田舎があったという嬉しさでいっぱいで、もう体操スタンプの隙間なんて気にならなかった。
特に誰にもかまってもらえるわけではなかったが、山の中にポツンとある大きな茅葺屋根の平屋は、それだけでも珍しく、トイレは外、風呂は五右衛門風呂、洗面は裏山の斜面から流れ出る清水。
この天然の洗面所は、お気に入りの場所で、そこで歯磨きをするのが大好きだった。
冷たい水、鳥の囀り、珍しい蜻蛉も飛んでくる。
ただ、ずっとちょろちょろと流れ続ける清水をみていると、決まって尿意をもようし、それがその場を離れる合図になる。
母屋の並びには、馬小屋もあった。
もう、馬はいなかったけど、黒くて大きくてよく吠える犬と、弱弱しく尻尾を振るシロと言う名前の薄汚れた薄茶の犬が、住居にしていた。
遊び場は、道沿いに流れる川で、そこを川に沿って上がっていくとちょうどいいプールになる水場もあった。
川で遊んでいると、すごい勢いで見たこともない太さの蛇が流れてくることもあった。
おなかがすくと、木に登り、熟れた桃をもいでかじったり、口の中がどす黒くなるまで山ブドウを食べた。
それでも足りないと、忙しそうなおばさんのところへ行って、赤ちゃんの顔くらいある大きな味噌おにぎりを作ってもらって、むしゃむしゃと頬張った。
時々煙草の葉っぱを編む仕事を手伝って、1時間もすると1本の長い束が編みあがり、1本につき100円札1枚もらった。
納屋の天井からつるされた沢山の煙草の葉っぱの束から醸し出される甘いような青いような香りと共に、人生初のこのアルバイトは忘れられない思い出だ。
ただ、楽しいいい思い出ばかりじゃないのが、古の因縁によるものかもしれなかった。
男は大事にされるという封建的な地域性なのか、兄は普通の畳の部屋に布団を2枚敷いて寝ていたのに、私は何故か板の間に煎餅布団だった。
ただ、無邪気だったのか、板の間のほうが涼しくて、子ども心にモダンな感じがしてイヤじゃなかった。
それを聞いた母は、血相を変えて憤慨したけど・・・。
従兄に借りたバイクを、私を後ろに乗せて兄が運転して遊び、田圃に突っ込んで、私だけ泥んこになって怒られたりもしたなあ。
15年ほど前に、この思い出深い家屋は残念ながら火事で全焼してしまい、今は周りの景色に似合わない近代的な家が建っている。
家までも舗装された道路が通り、車で10分ほど走ると温泉リゾートの別荘地があったりして、もう様変わりしている。
父が亡くなってもう、14年が経つが、家を守っている従兄から、仇の子孫の母に年末になると荷物が届く。
そこでとれた、もち米・白米・大豆・青豆・筍の缶詰と、まさにふるさと小包。
その時期になるとお裾わけをもらって、私は、夏のあの日をやっぱり思い出す。