夏休みの思い出―2

夏の思い出はものすごく断片的で、正確な年を思い出すのが難しい。
「豊島園の花火を見に行ったのはいつだっけ?」
「あ、そうそう高校を卒業したばかりで、アメリカへ行く前だ」
「だったら、あの年は、高校時代一番仲の良かった友だちと新島に卒業旅行へ行ったよな。」
思い出の引き出しから、記憶の断片を少しずつ引っ張り出してみる。
その友だちは、浪人中だったから(ちゃんと目標大学に受かった!)呑気な二人だ。
夜の竹芝桟橋(当時は浜松町駅から徒歩)からフェリーに乗り、朝早く新島に到着。
友だちの従兄弟の知り合い(わりと細かく覚えてる)の民宿で、2泊お世話になった。
4畳半くらいの焼けた畳の部屋に、小さな折りたたみのテーブルがひとつ。
もちろん、テレビもラジオも文化的なものは何も置いてない、殺風景な部屋。
カビ臭い押入れにどう見ても4人しか寝られないだろうに、沢山の布団がぎゅうぎゅうに押しこまれていた。
チェックイン時間なんて関係ないから。早朝にも関わらずすぐに朝食を出してくれた。
しかし、メインのおかずが名産の「くさや」。
これがプチ不幸の始まりだった。
なんだって、あんなに臭いものがおいしいって思う人がいるのだろう。
しばらくお目にかかっていないけど、小さい頃からたぶん父が好きで、それを知ってる友人が時々お土産に持ってきてくれた「くさや」。
母がそれを焼き始めると、いじめっ子のように鼻をつまんで「くっさーーい!」と揶揄した。
要するに鯵の干物で、くさや液(魚醤らしい)と言われる独特の風味(臭い)の液に漬けてから天日干しにしたもので、軽く焼いて食べる。
噛めば噛むほどその臭みは口の中に広がり、滋賀の名産の鮒寿司みたいなもので、たぶんグルメ界のキワモノだと思う。
とにかく、その苦手中の苦手なおかずがほぼ毎食、この民宿の食卓には誇らしげに真ん中に乗っていた。
島なのに、刺身じゃなくて、メインディッシュは常にこのくさや。
代替えおかずの要求も出来なかった小心者の私たちは、結局ずっとこの「くさや」に悩まされることになった。
新島の一番の思い出は、きれいな海でも、友だちと夜通し語り合ったことでも、そこで誰かと知り合ったとかでもなく、あの「くさや」なのだ。

好き嫌いがほとんどなくなった今でも、たぶん「くさや」だけは食べられないような気がする。
幸運なことにお目にかかる機会もないのだけれど・・・。
帰りは小田原経由だったので、小田原城にも行ったらしいことが、そんな写真があったことでわかるだけ。
本当に見事に「くさや」しか覚えていない。
これは、たぶん微笑ましい思い出の部類で、最悪の夏休みもまた、別な意味で思い出される。
それは高校1年の夏休み、入学して初めての夏休みは、それなりに新しい友だちも出来て、青春真っただ中にいるはずだった。
家庭の事情で、母と二人、小さなアパートの一室で、その夏、私はまだ少し早い蝉の抜け殻のように、アパートの部屋に籠っていた。
ヒッキーの先駆けだった。
バイトも少しはしたような気がするが、高校時代は沢山のアルバイトをしているので、この時のバイトを思い出せない。
着の身着のままで出てきたので、冷房器具もなく、涼しい夜に活動して、昼間は窓を開けっ放しで寝るという、大胆かつエコな夏休みを過ごした。
「図書館に行けばよかったのに」とあの頃の私に教えてあげたい。
ラジオが友だちで、夜になるとラジオから流れる深夜放送を、本当に真剣に聴いていた。
有り余る時間を持て余して、悲劇的な状況を楽しんでいたようにも思う。
海外小説の文庫本を、貪るように読みながら。

そんなことで、思い出って実は、楽しいことよりつまらないことを沢山覚えているものだ。
そんなつまらないことを、その時はいろんな思いで受け止めていたのだと思う。
決して、不幸と言う感覚はなかったので、そういうプラス思考は、この頃から私に備わっていたようだ。