「いい、お葬式」

 

私の知り合いの方のお葬式があった。

その方は三原のいくつもの学校や町内、祭り事やスポーツ団体の役職をいくつも持つ、いわば町の有識者であった。

一本「ピシッ」と芯が通っていて、善かれと思う事はひたすらその目標に向かって進んで行く。自分の信念はなかなか曲げない。 かと言って頑固な訳ではない。意見をよく聞いて生かしてくれた。 そこがみんなに好かれていた。

今日はその人の「お葬式」だった。

 

誤解を招いてはいけないが、お葬式には「いい、お葬式」と「そうでもない、お葬式」があると私は思っている。

そしてその線引きは葬儀の大きさや、参列者の数ではもちろんない。

自分の心が一本スーっと太い線を引くのだ。

 

昔々私がまだ小学1、2年生だった頃、府中市の本家でおじいちゃんのお葬式があった。

子供心にも「おじいちゃんが死んだ。」=「みんな悲しい。」=「泣く。」という図式だったが、あにはからんや、みんなして笑い合っているではないか!

それが幼い私には解らなかった。

「人が、しかもおじいちゃんが死んだんだよ・・・。」って。

今思えば、遠い親戚はこんなことでもない限りなかなか会えない。 天命をある程度全うしたからこその近い者(親戚)同士の笑いはイコール亡くなった者への弔いだ。

多分通夜の席では「いやぁ〜、目出たい!」などとみんなで祝ってあげていたんだろう。

ただそうは言っても、当家、同居していた親族の気持ちは、また遠い人達とは全然違う。 それを理解した上で、明日は我が身とみんなで笑い合う。 

 

ここ最近のお葬式で、私は気になる「音」がふたつある。

神経質すぎるのかも知れないが、葬儀の始まる前の参列者の「軽い笑い声」と「パタン!」と携帯電話を閉める音だ。

仕事関係のお義理の合掌やお得意様との談笑やデジタル機器の持ち込みは、美しき日本人のマナーではない。 

型式に縛られ予算と時間進行ばかりを優先する葬儀場も多くなり、お葬式というセレモニーをしただけの感想しか私は持てなくなっていた。

 

 

式が終盤に差し掛かった頃、最前列の親族の席で大きく揺れている男性の肩が見えた。

揺れているというより上下に震えている様だ。 本当に何かを伝えようと、一生懸命に耐えている様な揺さぶりだった。

その人は亡くなった息子の父親だった。 その肩の震えは治まるどころか他の人に支えてもらわなければ焼香に立つ事さえ出来なくなっている。

自分より先に送らなければならなくなった悔しさと悲しさを、私はそれ以上直視できなかった。

 

心温まる弔辞や喪主の謙虚で力強い挨拶の言葉も参列者に届いた。

霊柩車を見送って三々五々みんなが散らばってゆく中、おもわず口から出た言葉。

「いい、お葬式だったなぁ・・・」って。

 

自分の中で、素直に心が一本の線を引っぱった瞬間。

亡くなった人へのそれがせめてもの自分が最後にできるお返し。

 

人を「送る」という事。

ただ、残念なのはその人がまだ、55才だったという事だ。