知ったあと。

2004年にカンヌ国際映画祭で最年少主演男優賞を当時15歳の柳楽優弥(やぎらゆうや)が獲得して話題となった映画、「誰も知らない」。
カンヌのニュースから1年後にレンタルビデオでこの作品を観て、大きな衝撃を覚えた。
それから、この事件がモチーフとなった「巣鴨子ども置き去り事件」について調べたりもした。
この時は、ただ、こういう事件があったという事実を知った。
先日、よく訪れるテレビドラマの演出家、大根仁(おおねひとし)さんのブログで、彼がこの事件と似たような光景を目にする体験を読んだ。

http://blog.livedoor.jp/hitoshione/archives/51181360.html

彼の体験が、その時の心情と共に映画のワンシーンのように克明に綴られている。
この体験をしてから、彼はそれまで他人事としてほって置いた企画を思い出す。
体験というものは、人を突き動かすエネルギーが半端じゃない。
映画や本で体験するものは、あくまでも疑似体験で、しかもある程度予測して自ら望んでその体験をする。
積極的な疑似体験になる。
しかし、自分が主人公でないにしても、それをある程度直接的に関わるとなると、インパクトが違う。
「知った」からには、それなりに自分である種の受け止めが必要になる。
受け止めて、忘れるか、関わるかまず選択する。
関わることに決めれば、どう関わるかを考えることになる。
その関わり方で、また次の流れができて、また自分の中に思いが生じる。
それには終焉があるかもしれないし、ないかもしれない。
関わるにはそれなりの覚悟も必要な場合があるからだ。

そう思うと、ややこしいことは御免だと、関わることを最初から拒否してしまうことも多い。
しかし、自分が主役ではない体験は、チャンスかもしれない。
経験という、思慮という、契機という、あらゆる可能性を秘めたチャンスかもしれない。
自分のことではないから、ある程度客観視できるし、冷静に対処もできる。
そう思いたい。
そう思って、他人事の体験を、自分の体験の一部として自分の役割を考えたい。

私は私自身の体験よりも、そういう体験が多い。
自分自身は決して波乱万丈な人生ではないのに、そういう人との関わりが多い。
その関わりが、今の自分を作っている。
「知りたい」という思いとは、別に「知ってしまった」ということは、運命なのだと思う。
「知るまで」の私と「知ってから」の私。
同じであるはずはない。
同じであってはならない。
「知って」から「関わる」ことにより、それから初めて本当の体験となる。
そんな思いを再認識させられた。