オーラの人

本田勝一(ジャーナリスト)冨田勲(作曲家)桂由美(デザイナー)五木寛之(作家)石原慎太郎(作家・政治家)岸恵子・有馬稲子(女優)。
未だに現役でバリバリに活躍している人が多い花の昭和7年(1932年)に仲代達矢は生まれた。
私が今まで持っていた彼のイメージは、黒澤映画「影武者」や「乱」で観た、男にしては大きすぎる目をさらにかっと見開き、少し大袈裟なくらい鬼気迫る表情と、籠ったような声なのに滑舌がいいというアンバランスな台詞まわしが、如何にも演劇的だというものだった。
母と同じ年で演劇人として主役を張っていることだけでも尊敬に値するが、それ以上でもなく、それ以下でもなかった。
今までは・・・。
今年の彼は、映画では「春との旅」で孫と旅をする偏屈な老人を熱演、主催する無名塾では「炎の人」で主役ゴッホを演じ、全国の市民劇場で精力的に廻っている。
偶然にもDVDで今年の初めに観た1962年の主演映画で、未だに高評価を得ている、カンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞作でもある「切腹」を観て、その静と動、陰と陽のメリハリを表現できる貴重な俳優であると思ったのも偶然ではなかったのだろう。
2年前から参加している尾道市民劇場で無名塾の「炎の人」が上演されることを去年知り、「無名塾」というネームバリューのみで楽しみにしていたのが、これを機に、俳優「仲代達矢」を心待ちにするようになった。
それに先駆け、7月には母や友だちと一緒に「春との旅」を映画館で観た。
北海道の漁村に住む元漁師の老人忠男が、妻に先立たれ、孫の春の世話になりながら暮らしていたが、春の失職で北海道での二人暮らしが出来なくなり、忠男の引受先を探すべく二人で親戚を訪ねるというかなり重いテーマのロードムービーで、仲代達矢は、貧しく頑固で迷惑な老人を見事に演じて、鑑賞後は、映画の中に出てくる人の複数に感情移入してしまい、なんだかとっても辛くなったが、唯一移入出来なかったのが、彼の演じる忠男だったことが自分でも不思議で、「どうしてなんだろう?」と疑問が残った。
そして、「炎の人」を観終わって、その答えがわかったような気がした。
「炎の人」は余りにも有名な狂気の天才画家、ビンセント・ヴァン・ゴッホの青年期から非業の死を遂げるまでの激動の半生を描いた劇作家三好十郎の傑作で、劇団民藝の滝沢修(故人)の当たり役でもある。
俳優、演出家でも大先輩でもある滝沢修が亡くなっている今だからこそ実現できたのかもしれないが、今となってはもう観ることの出来ない滝沢修の演じる「炎の人」も、仲代達矢との比較対象として観てみたかった気もする。
滝沢修はきっと、ゴッホを完璧に演じ切ったに違いない。

第一幕、寂れた炭鉱で、やさぐれた炭鉱夫たちとの労働闘争の会話の中で唐突に仲代達矢が出現する。
彼の出現と共に現れたのは、圧倒的な彼自身のオーラだった。
そこにあったのは、ゴッホを演じる「仲代達矢」ではなく、彼自身だった。
それはある種の憑依でもあり、ライブでしか味わえない独特な世界の中に投げ出されたような空気感でもあった。
そして、仲代達矢が、他の誰とも比較できない唯一無二の存在であることを確信した瞬間でもあった。
3階席から身を乗り出して全体を観ていたはずなのに、彼の姿しか、彼の声しか届かないくらいの凄まじいオーラだった。
唯一無二の存在に感情移入なんて出来るはずはないのだから、映画の時も、演じられた忠男よりも、仲代達矢という存在を感じとってしまったのだろう。
それは、役者にとって果たしていいことなのかどうかは別問題として、人間としては、ものすごい吸引力で人の目を逸らさない、傍にいるだけで影響を与えざるを得ない存在なのだろう。
この2年間で20近い芝居を観てきたが、これほど一人の役者にオーラを感じたこともなかった。
演劇が、その演じられる舞台だけではなく、その個人の何かを強く感じとるものだということを、初めて体感した貴重な舞台だった。
決してミーハー的な意味合いではなく、「無名塾」仲代達矢という名前で、客を呼べるという、演劇人としての圧倒的なオーラをまた観てみたい。