リアル・シンデレラ(私のちょっとした幸福論)

幸福について考えるとき、どうしても忘れられない情景がある。 里帰り、夜の新幹線のガランとした車両。 病気の友だち、生活が大変だという親戚、沢山の困難が次から次へとやってくる不運な友だち、何も出来ないかもしれないけど、そばにいるだけで何かの慰めになるかもしれないと思う一方で、だんだんその距離が離れていくという現実が、悲しかった。
ひと駅ひと駅通過するたびに、帰りたい家は近付き、残した思いだけが取り残されていく。 あの時、窓の外に映る小さな灯りを、あの一つ一つの暮らしの中にも、沢山の辛さ悲しさがある、そんな思いで見ていた。 自分の無力と、思いの深さ(それが一時的でも)のバランスがとれずに、なにが出来てなにが出来ないかということさえ分からずにいたような気がする。 結局、帰宅して、しばらく体調を崩して、身体が元に戻ると共に気持ちもだんだんと日常へと戻っていく。 そんな自分に薄情と悔いたり、安堵したり葛藤しながらだけど。
リアル・シンデレラの泉(せん)に、そんな自分の幸福感を照らし合わせてみる。
泉は、自分に関わる人の幸福をまず思う。 その人の幸福を、自分が邪魔していないかを考える。 もし、自分の存在が相手の不幸を生みだすとしたら、それほど彼女にとって不幸なことはないのだ。 泉は最後まで心を許すような家族を持たなかった。 泉自身は、いつまだそうだったか覚えていないし、ずっとそうだったかもしれないけれど、家族の一員として存在していた時期があった。 しかし、そうでないと自覚した時から、泉は、自分の幸福について考えた。 泉の幸福は、他人が幸福だと感じることであり、決して自分の存在が他人の不幸を招いてはならないことを。 幸福とは、奪うことで生れるものなのか、自分が得るということは、誰かが失うというものなのか? 少なくとも、さまざまな経験を経て泉はそう思ってしまった。 思ってからは、自分の幸福感に沿って生きようと決心してからは、それを貫くことが出来た。 自分の家族さえも、そのために差しだすことを惜しまなかった。 実際、そういう環境に自分が置かれることは稀なことだろうけど、私だったらどうするかとリアル・シンデレラを読んでから、頻繁に思うようになった。 確かに、私の幸福の中には「自分以外の人の幸福」が含まれる。 自分があらゆるものに満たされていたとしても、満たされていない人がいると思うだけで、幸福感は薄れる。 むしろ、幸福というより、それは感謝という言葉に置き換えられる。 だから、周りの状態(自分が思う幸福かもしれない)が気になる。 結局は、幸福感は人それぞれで違うのだから、全ての人がそうあるはずはないのに。 だとしたら、幸福は瞬間であって、継続的なものではないのかもしれない。 あるいは、幸福は、人によってもたらせられるものであり、自分だけではあり得ないのかもしれない。 そんなことを考えながら、一方では、自分によって幸福になれる存在が必ずいることも思わずにはいられない。 自分でなければ、なのだろう。 その集約されるものが、家族だから。 自分の中の優先順位は、家族であるはずだから。 世の中で聖人と言われる人、たとえばマザーテレサのような人は家族を持たない。 家族がいると、特別な存在が出来てしまい、人を平等に愛することが難しくなるからという考え方がある。 だから、泉を聖人としてとらえれば、彼女のあの幸福感が決して違和感はない。 そして、彼女と同じようになれなくても、自分自身を卑下する必要さえも。 なぜなら、私は決して聖人ではないから・・・。 家族の存在が、個人の幸福の原点だと思う人は多いだろう。 家族とそうでない人たちとの線引きをどこかでしながら、いつの間にか自分の愛が向けられる優先順位を考えている。 それでもいいじゃないか、という自分、そんなもんじゃないと思う自分。 凡人であるがゆえに、私の思う幸福は普遍ではない。 (この文を読み直して沢山の「ない」という語尾に気付き唖然とした(少し削ったくらい)いかに自分の中に幸福について迷いがあるかを確認することになった)