父を想う

4月12日は父の命日。
父は、60歳までは病気知らずの元気な人だった。
お酒と煙草とコーヒーが好きで、書も絵も歌も上手でとっても器用な人だった。
60歳を過ぎた頃から、時々「肩が痛い、五十肩かなぁ」と言い、痛みで寝返りもできなくなってから精密検査を受けて、リューマチだということがわかり、それでも我慢強かった父は定年後も嘱託として、同じようなスケジュールで仕事をこなしていた。
「仕事が出来なくなった時は死ぬ時だ」と口癖のように言っていた。
リューマチ菌が肺まで忍び寄り、2段おきに走って上っていた駅の階段さえ容易に上がれなくなったある日、父の肺は悲鳴を上げ、検査から即効で入院となった。
その何日か後に、爆睡していて息苦しさから酸素マスクを外してしまい、看護師さんが気がついたときはチアノーゼを起こして、そのままICUに運ばれ、「覚悟したほうがいい」と母から連絡があって次の朝、私が横浜の病院へ着いたときは、ベットから起き上がって「おお、すまんなぁ」と苦笑いをしていた。
それから1カ月後、父は看病という親孝行の真似事を最後にさせてくれ、「もし自分が亡くなったら、腎臓と角膜を提供してくれ」という遺言を残してあっけなく逝ってしまった。 その願いも叶えてあげることができた。

お葬式も、生前からの希望で密葬にしたが、出棺の時には30軒の集合住宅で仲良くしてもらった近所の人が見送ってくれた。
満開の桜がちょうど散る頃で、質素な白木の棺に、住宅のシンボルとして植えてあった桜の木から一枝折って置いてくれた。
今でも桜の散る頃になると、それを思い出す。 悲しいとか、寂しいとか、そういう気持ちではなく、アルバムの写真を懐かしく見るみたいに、ただその情景を思い出す。
父は福島県の会津で生まれ育った。 今、生きていたら82歳、この未曽有の大震災を関東で体験したら、どうしただろう? そんなことをふと思った。
実家を継いでいる甥(私の従兄)からは、震災の翌日に連絡があり、親戚の無事は確認されたが、父の知人は福島県に大勢いるはずだ。
病気にならなければ、老後は大好きな福島の地で、自給自足の暮らしをしたいと話していた。
大きなリュックを背負って、知人を訪ねて瓦礫の中を歩く父の姿を想像する。 決して、弱音を吐かなかった東北人であることを誇りにしていた父のそんな姿を想像できる。 しかし、同時に情に厚くて涙もろくて、娘の私にも弱さを時々見せていた父の姿も思い出してしまう。
今回の震災では、本当に沢山の人が亡くなった。 人だけではなく、何もかも無くしてしまった人も大勢いて、テレビでは明るく強く話している人たちの顔ばかりが美談として映るが、心の中までは決して映らない。 強さがあればあるほど、その中に封じ込められた弱さを私は思う。 父がそうであったように、強い人は、同じくらいの弱さも持っている。 「弱さがあるから優しいんだ」って、そんな風にずっと思っていた。
満開の桜が散り、父を想っていた春に、これからは今回の震災のことも想うだろう。 復興の願いは、故郷の再生は、今住んでいる人たちだけではなく、かつて住んでいた人、もう亡くなってしまった人たちにとっても、大きな願いだ。
父の娘である私にとっても、そこは故郷に違いないはずだ。