三原に吹く風

 

 

「しなければならな」「したいからする」

 

東京で仕事があって、6日間ぶっ通しで頑張った。

7日目にご褒美でディズニーシーに行くことになっていたのだが、2日前の朝早く実家の母から電話があり、どうやら具合が芳しくないらしい。

嫌な予感がよぎる。

そして、その予感は的中、その日は透析に通っている病院に診療に行き、透析をするシャントが詰まっているということがわかり、月曜日にさっそく家から車で1時間ほど離れた病院に入院することになった。

「誰か一緒に行ってくれる人いない?」

「いないわよ」

 

人に迷惑をかけたくないと思っている母は即座にそういう。

 

「じゃあ、私帰るよ」

「いいよ、ひとりで出来るから、心配かけるつもりじゃなくて報告したかっただけだし・・・」

 

そんな会話の応酬があって、結局私は迷った。

ディズニーシーに行きたかったからではなく、「行かなければならない」という気持ちで帰ると、ディズニーシーに行けなかったということが、母のせいという意識がいつまでも残ると思ったからだ。

 

 

 

いく、いかない(する、しない)という選択は、結局は自分自身でする。

 

ディズニーシー行きを選択した場合は、(少し心を残しながらも)気の置けない友だちと楽しい時間を過ごし、思い出が増える。

母が「いいから・・・」と言ったんだから、という言い訳さえ使えるのだ。

 

帰宅して、病院に付き添うと選択した場合は、母の安心と、もちろん自分自身が入院する母をほっておかなかったという自己満足が得られる。

 

いずれも、どうもしっくりこない感情だ。

それは、たぶん「しなければならない」という感情が前提にあるからなんだろう。

もし、「したいからする」と即座に言えるのなら、そこに迷いはない。

 

選択にも、2種類あって、どちらでもいいんだと思える選択と、どちらにころんでも後で小さな後悔のような感情が残るという選択。

そこには「したいからする」と言う感情が見え隠れする。

 

「しなければならない」と言う場合は、しないと後悔することは明らかで、することによるデメリットがどれくらいなのか・・・という一点だけが問題になる。

しかし、その一点のこだわりがややもするときつかったりする。

 

「したいからする」の場合は、「したいからするけど、した時に生じる自己責任はちゃんととる」と言う覚悟が出来ている。

自分で選んだという意思がはっきりすることで、それにともなう責任もちゃんと自覚できるのだ。

 

かくして私は、帰宅の道を選んだ。

 

それはある言葉がきっかけで、「しなければならない」的な気持ちから「したいからする」という気持ちになったからだ。

 

「家族なんだから、当たり前じゃない」

 

当たり前のことにも結局迷いはないはずだった。

強制という感覚が消えた時に初めて、当たり前のことが自分の意思になりえると思った。

 

そして、当たり前に帰って母の入院を手伝えたその日は、ディズニーシーで遊んでいる友だちをうらやましいと思わなかったことがなんだかとっても嬉しかった。

この、同じ選択でも自分の気持ちひとつで