走り続けるディラン

世界中のミュージシャンにレスペクトされ、今もなお多大なる影響を与え続けている彼は、「風に吹かれて」をはじめ生み出した多くの楽曲がスタンダードとなり、代表曲である「ライク・ア・ローリング・ストーン」は米ローリングストーン誌が選ぶ歴代ロック名曲500曲の1位で、ロッキンオンのロック名詩選ベスト100にも選ばれている。

私は、高校の頃にジョージハリソン(ビートルズのメンバー)がお目当てで何回も映画館に通って観た「バンクラデシュのコンサート」で初めて彼の歌う姿を見た。
高音で時々ひっくり返るその変わった声と、唇を時々あげながらけだるそうに苦しそうに歌う表情の彼とは対照的に、周りで演奏し、歌っているミュージシャンが、みんな楽しそうな顔だったのが印象的だった。
初めてアルバムを買ったのは二十歳頃で、当時流行っていた「ワン・モア・カップ・オブ・コーヒー」が入っていたアルバムだったと思う。
特にファンというわけではなかったけれど、どこからか流れてくるとふと口ずさんでしまう彼の歌は私の中でもスタンダードだったのかもしれない。

ボブ・ディランの自伝的映画「アイム・ノット・ゼア」の存在を知ったのはアカデミー賞助演女優賞にケート・ブランシェットがノミネートされ、その後何かの映画の予告編で、ディランのいろんな側面を6人の俳優で演じているというユニークな手法に興味をそそられた。
詩人・無法者・映画スター・革命家・放浪者・ロックスターとボブ・ディランの6つの顔がまったく違ったキャストによって演じられる。

リチャード・ギア、この映画が遺作となったヒース・レンジャーと、かなりの豪華キャスティングで、全編ディランの曲が(カバーも含め)たっぷり楽しめる。
今回ほど映画を見る前に予習したことはなかった。
彼のベストアルバムを改めてじっくり聴いたり、ネットで彼に関する記事を読んだり、ちょうどBSでやっていた3時間のドキュメンタリーを真剣に見た。

あまり期待し過ぎると見た後で気が抜けたりするものだけど、映画は期待を裏切らないかなりクオリティの高いものだった。
自伝的映画でありながら、単に出来事だけを追うのではなく、ディランの内面が具体的に表現されていたし、トッド・ヘインズ監督のユーモア・センスもところどころにちりばめられていた。
ディランの一番有名な「風に吹かれて」は結局最後まで流れることはなかった。
あるカットで、風船になった彼がふわふわと浮いていただけだった。
5人の男優は素の容姿で各々のディランを演じていたのに紅一点のケイト・ブランシェットだけがディランを真似ていた。
この意外こそが、映画の一番の魅力だったのではないかと思う。

この映画をきっかけにディランのある一部分を知ることになったわけだけど、
詩人としての彼の良さがいま一つ私にはわからない。
プロテストソングを歌っている時の詩は確かにわかりやすく、だから当時の若者に受け入れられ、カリスマ化されたのだろうけど、あくまでもそれは彼の途上、あるいは一部分に過ぎなかった。
彼は決してその時代の代弁者ではなく、自分自身を表現するアーティストだ。
変化するから、長い間一線で活躍し続けることが出来たのかもしれないし、今もそれが続いている。
まさに、「アイム・ノット・ゼア」とは「留まらない」ということなのだろうか。
一つだけ残念に思ったのは、私の理解不足なのかもしれないが、6人のディランが、彼のそういう変化を時代ごとに表現しているように感じられたことで、同じ時期にいろんな彼の顔を見てみたいと思った。
ディラン自身飽き飽きしている言われ方かもしれないが、彼が何者なのかという答えはやはり誰も知ることはできない。
たぶんそれは風の中にあるのだから・・・・。

どれだけ多くの道を歩めば人は人として認められるの?
どれだけ多くの海の上を泳げば白い鳩は浜の上で休めるの?
どれだけ多くの鉄砲玉が飛んだらそれらが禁止されるの?
友よ、答えは風の中に舞っている
答えは風の中に舞っている


風に吹かれて ボブ・ディラン