チンさんと北京オリンピック


スポーツイベントが大好きなので、きっとかじりついて観るだろう北京オリンピックを前に「胡同(フートン)の理髪師」を観られるなんて、我ながらタイムリーだったなと思う。
「胡同の理髪師」は北京オリンピックを控え、伝統的な民家が取り壊されていく胡同に暮らす93歳の理髪師の日々の暮らしが、ドキュメンタリータッチで描かれている。
主人公のチンおじいさんは現役の理髪師、他の出演者も素人が多いのだが、それが生き生きと生の人間臭さが溢れている。
ハンデ押したようなチンおじいさんの日常を淡々と追うカメラ。
そこにはドラマチックな何かがあるわけではなく、まさに中国の小都市に住む職人のおじいさんの日常生活の中に、中国人の静かな生活や人間性を垣間見る。

ここのところ、中国たたきがいろんな方面で厳しく、私も積極的に悪口を言わないまでも、「中国・・・うーーん、そんなに好きじゃないな」と思ってきた。
もう何年も前から中国産の野菜は避けていた。
これから先もそれは買いたくないけれど、それとイコール、「中国人はずるい」とか「せこい!」とか、もう、そういう風には思わないきっかけをこの映画がくれた。
あれだけのことがあっても結局スーパーには中国産のものが山積みされている。
結局なんだかんだ言っても、こういう状況になってしまったことには中国側にも、日本側にも訳があるのだと、想像できる。
喧嘩だって昔から両成敗なのだから。
誰が悪くて誰が正しい。
そういうことはまったく考えないとは言えないまでも、悪人を一人作ることによって、何かがごまかされているような気がしてならない。
話がそれてしまったけど、それほど中国に関してはいろいろと考えされられる映画だった。
例えば、ひどい目にあわされた国をそれから憎み続けてきた人生において、その国の一人の優しさに触れたその瞬間に、すべてを許してしまうくらいな力がこういう映画ひとつにもあるような気がしてならない。

「胡同の理髪師」は決していいところだけをクローズアップしているわけではない。
チンさんが通う独居老人に親切にしている隣人の中年女性にしても、親切心から世話をしていると言いながら、結局は彼が黙って息子に引き取られると、自分に黙って、とひどく腹を立て、必ずしも善意だけで世話をしていたわけじゃない雰囲気が漂う。

チンさんの行きつけのもつ焼きのお店の2代目は、チンさんがやってくると、若い人に「そこはこのおじいさんの指定席のようなものだから譲ってくれないか」と、日本人が失いかけている老人に対しての深くて重い畏怖の気持ちがよく表れていた。
そして、チンさん自身も、淡々と暮らしながらも日常の些細なことも気になったり、気になるから毎日同じことを繰り返しているのかもしれないが、不自然に感じるくらい自分の子供に対して気を使ったり、死に対して恐れを抱いたり、ただ仙人のように暮らしているわけではなく、「人間臭い」のだ。

「名もなく貧しく美しく」と、いう言葉がよぎる。
彼は、日常に逆らわない。
働いて、遊んで、人に親切にしたり、されたり、同じことを繰り返すことに何の疑問も不満ももたずに、その状態が心地よいのだというはっきりとした意思が観ている私に伝わり、小さいことに一喜一憂する自分自身がなんだか小さく感じてしまった。

北京オリンピックの開会式は、壮大なスケールと緻密な計算、一糸乱れぬ団結力は確かに素晴らしかった。
中国人の団結力、統率力、長い歴史を誇りに思いながらも、徐々に近代国家としての仲間入りを果たしているという宣言のようなものを強く感じた。
「私たちはこんなにすごいんだ」と、精一杯花火を上げていた。
それはそれで確かにある種の感動はあったのだけど・・・。

でも、私にとっては、北京オリンピックのこれでもかこれでも的な表現よりも、「胡同の理髪師」ように、今の中国や中国人をそっと見せてくれるほうが、好きだ。