高野山詣で(その一)

見知らぬ土地の夜道、ましてそれが山道となると心細い。
神戸から、親戚の法事を済ませての高野山行は、「今日中につかんかも・・・」と、言われてのおっかなびっくりのスタートで、せっかく聞いた道もしょっぱなから間違えて、なんだか高野山が離れている気さえしてきた。
ナビが搭載されていない車では必需品の地図も、老眼がこう進んでは役に立たず、頼りのスタンドやコンビニの店員さんも近畿道の入り口さえ説明できない。
肝心なところが呑気な私たちなので、これも修行のひとつか。
それでもなんとか道標の「高野山」が辺りもすっかり暗くなってきた頃に現われてほっとする。
前の車を頼りに、山道を結構なスピードで登って行く。
ちょうどその車を見失った分岐点で、周りが急に明るくなった。
見上げると、大きな朱色の門が闇の中、神々しく光輝いている。
「車から飛び降りて、しばし唖然と門を見上げる。
「おお! ようやっと着いた!!」
ここが、高野山の入り口となる重要文化財でもある大門だ。
当てずっぽうの予定時刻には遅れたものの、今日お世話になる宿坊、一乗院に20時ちょうどに到着し、部屋でいろいろな説明を聞いたあとで別間に仕度された精進料理をいただく。
黒米入りのご飯、名物の胡麻豆腐、温かい味噌汁にデザートのまだ青い和歌山蜜柑が印象的な美味しい精進料理に、いつの間にか不安が満足感に変わっていた。
9時までの入浴も間に合い、さっぱりとした浴衣で部屋に戻ると、もう布団も敷かれていた。
想像よりはるかに広くて清潔で、トイレと洗面が共同以外は、ちょっと高級な旅館となんら遜色ない。
ただ、テレビがあることに、少し興醒めする。
とはいえ、この夜は北京オリンピックの閉会式だったので、早めに布団に入り、せめて小さい事に安堵しつつ横目で観戦する。
お寺で迎える静かな朝は5時前に自然に目が覚めた。
静かだが、何となくそれぞれが活動している気配を感じる。
身支度を整えて、お寺の周りを少し散歩して、6時過ぎの朝のお勤めに参加する。
中央に副住職が座り、脇に二人ずつ脇僧が座る。
家は浄土真宗なので、真言宗のお勤めは初体験だ。
お経も、副住職の腹の底から響く重厚な響きに、まだ若い声や、中堅どころの僧の高い声、時々鐘や太鼓が追い重なる。
途中からお焼香が始まり、一人ずつ前に出て各々が粛々と行う。
私の前では感心な小学生くらいの男の子二人がきちんと正坐して、手を合わせ、足も崩すことなく最後まで勤めていた。
足の痺れも気合のせいか、なく、すっと立って朝食の待っている部屋に戻る。
お坊さんがきっと修行の一環で作ってくれていると思うと、簡単な朝食もありがたく、美味しく思える。
その後、予約していた阿字観(あじかん)体験をする。
阿字観とは密教(真言宗)の御本尊の大日如来を表す「阿」を呼吸と共に発しながら、大日如来を大宇宙と考え、宇宙と自分自身が一つになる感覚で瞑想することらしい。
説明を聞き、早速呼吸法を習い、最初は「あーーーー」と皆一緒に吐き出しながら声を出す。
そのうち、だんだんと自分だけの呼吸になり、他を意識しなくなり、自分の世界に入ることが出来ればそれが体感なのだろうけど、声を出している時は、自分の呼吸の浅さがきになってしまい、隣の裏がえる声に笑いそうになったりした。
後半の声を出さない呼吸になってからは、だんだん自分の世界に入り込めたと思う。
頭の中で昴星団がきらきら輝いていた。
いつもよりは寝不足なはずだか、興奮しているのか、心地よいのか、頭はすっきりしていた。
9時過ぎに、一乗院を後にして、いよいよ高野山の真髄に向かう。
ここの総本山である金剛峯寺(こんごうぶじ)までは、1200年の歴史そのものの見上げるばかりの杉並木を10分ほど歩く。
京都のお寺の圧倒されるような荘厳さは感じないものの、歴史の重みがそこかしこに散らばっている。
長い廊下を煌びやかな襖絵を楽しみながら進んでいくと、国内で最大級の石庭がある。
石のパワーを感じながら、どこを見ても一幅の絵のような寺内を堪能する。
一度で2000人分ほどの御飯が炊ける大釜のある台所を見終わって、再び外に出る。
振り返って、上を見ると檜皮葺の屋根に上に大きな桶が正面と左右に並んでいるのが見えた。
雨水を溜めて、火災に備えているらしいが、現実的でユーモラスだ。
それから、聖地壇上伽藍へ。

ここは見どころ満載で、根本大塔の中に入ると、巨大な大日如来や金剛界四仏が安置され、太い柱には大菩薩が描かれ、桃源郷にでも迷い込んだようだ。
とにかく、不思議の国で何かを探しているうさぎのように敷地内の建築物の周りを1周しながら、拝んだり、手をかざしてみたりして時間が許されるのならずっとこの場に留まっていたい気持ちになる。
しかし、まだ宝物殿や奥の院が待っている。
果たして、私はこの高野山に何の目的で訪れたのだろうと、あらためて自問自答する。
観光なのか、巡礼なのか。
いずれにしても、お盆も明けた八月最後の月曜日は静かで、少し優しくなった夏の日差しの中で、浮ついた気持ちもだんだんと郷に従って、俄聖人になったような心持ちだ。
                               (次号につづく)