イントゥ・ザ・ワイルド(荒野へ)


ショーン・ペン監督による映画「イントゥ・ザ・ワイルド」を観た余韻が、いまだに覚めやらない。
私が、思春期の頃より思い出したように時々吹きあがってくる感情、「自由」についてまた深く、強く考えている。

この映画の原作は、冒険家ジョン・クラカワーのノンフィクション小説「荒野へ」で、実際にあった話だということにも強く心惹かれた。
あらすじは、大学を優秀な成績で卒業したクリスが、車もお金も家族も捨て、アラスカを目指して放浪の旅に出るという話で、アラスカ山脈の誰もいない荒野にあった廃バスを拠点にしたクリスのたった一人のサバイバル生活と、そこに至るまでの旅の様子、出会った人たちとのふれあいが交互に描かれている。

クリスの家族への思いは複雑だ。
子供のころにすでに複雑な家庭環境を理解し、その中で「良い息子」を演じていたクリスだったが、彼は両親の生き方、価値観に違和感を覚え、とにかく自然の中に身を置き、そこで何かを感じようとする。
彼は、まず「自由」になろうとする。
何ものにも縛られない「自由」。
それはまず「独り」になることだった。
独りになるということは、案外難しい。
何もかも捨てるということは、もっと難しい。
捨てながらも、旅の途中では別の物を拾っていくからだ。
結局は、独りにならなければ、本当の意味の「自由」にはなれない、そう感じたクリスはアラスカの荒野を目指す。
そこには、圧倒的に美しく、厳しい自然があるのみで、自分だけの英知と体力でしか生きられない現実がある。

彼の生き方を「ラディカル」だととらえる感想もあったが、彼の思いは外に向かっているのではなく、あくまでも内に向かっていたような気がする。
「自由」について考えるとき、まずそれは「確認」することだ。
自分は「自由」なのか?
自分にとっての「自由」とはいったい何なのか?
「自由」を求めるのではなく、「自由」を知ること、それこそがクリスがこれから納得のいく人生を歩く上で必要なことだったのだと思う。

私も、かつてそういう時期があった。
私の場合は、親から離れるということ、知らない場所に独りで行くこと、その程度のシチュエーションだったが、女であることの不便さや、自分の変化を「独り」になることで確かめたかった。
まさに、いろいろなことを「確認」したかったのだと思う。
本当は、生きているということそのものが「確認」することなのだと最近思う。
「確認」できたことは経験として魂に擦りこまれ、もう二度と同じ経験をする必要はなくなる。
それは現世だけではなく、来世へと繋がる貴重な経験となる。
そう思うと、「死」は決して終焉ではなく、永遠と続いていく過程における、単なる区切りでしかない。
だから、結果的に訪れる「死」が何かを得るための代償とは決して思えない。
いや、思いたくない。

誰の詩だったか忘れてしまったが、中学の頃友だちに教えてもらってから、「自由」について考えるときに決まって思い出す詩がある。

石が孤独であるように
大地が孤独であるように
私もまた孤独であらねばならない
そうすれば どんな悲しみにも自由に耐えることができるだろう

確か、こんな内容だった。
悲しみには耐えることが出来る孤独は、喜びはもたらしてくれるのか?
その答えが、この映画のラストにある。
クリスが見つけたその答え。
私も、彼のおかげで自分では出来ない確認をまたすることが出来た。
彼はその「死」をもって、結果的に多くの人にたくさんのものを残すことにもなった。
彼がそれを求めていたかどうかにかかわらず・・・・。