悼む時


天童荒太の「悼む人」を読み終えて、胸の奥の原因不明のつかえがスーと降りて行くような気がした。
ああ、読んでよかった、と心から嬉しかった。

今年の初めに親しく付き合っていた友人が亡くなり、その現実を消化しきれずにいた。
彼女と会ったのは3年前の春、マクロの料理教室。
6回の教室のうち一緒に習ったのは4回だったけど、共通の興味があったせいか、最初から親しく話すようになり、教室が済んだ後にお茶をしながら話し、家にも遊びに来てくれて、急速に親しくなっていた。
年は私よりも母に近い年代だったので、母たちとも一緒に整体に通って、親しく話していたと思う。
お互いを通して、その友人たちとも知り合い、ひとつの出会いがまた次の出会いに繋がるようないい関係だったように思う。
最初の教室で自己紹介のとき彼女は自らが乳癌で、現在闘病中であることを告白した。
1年前に告知された時はもう末期癌で延命治療としての抗がん剤しかなく、それを断って、東洋医学で闘うことを決意し、食事療法を中心とした漢方やヒーリングで闘病していのだが、彼女の表情はいつもニコニコしていて明るく、楽しい事が大好きでとっても前向きに生きている姿勢が、病気を感じさせない。
検査を薦めたら、「癌マーカーの数値がとっても下がっていて、今は心配ないって言われてた」と嬉しそうに報告してくれた。
実際、あの頃は本当にアクティブに動いていて、時間があると旅行をしたり、映画を観たり、興味のあることを勉強したり、凄いバイタリティだったと思う。
そんな彼女が知り合ってから1年後の春、時々胸の痛みを訴えるようになった。
夏になって、だんだん痛みが頻繁になり、病院の検査結果も思わしくなく家で寝ていることが多くなった。
そして、秋、とうとう起き上がることも困難な状態になってしまった。
そうなってから私が時々彼女の家にお見舞いに行くようになり、最初は「何もしてあげられないから」と遠慮していたが、だんだん訪問を喜んでくれるようになった。
日に日に痛みが激しくなり、痩せて行く彼女を見ながら、何も出来ない無力感でいっぱいになった。
12月に入ると、新しく始めた治療のせいか、心の中に巣くっていたいろんな思いが溢れ出てきて、それを聞くことが私の彼女にしてあげられる唯一のことになり、彼女しか持てない重い荷物がなかなか置けないその姿が癌の痛みよりも痛々しく見えた。
「生きていることにも意味があるように、死ぬことにも意味があるよね」
近づきつつある「死」の影にも怯えないようにと、お互いの死生観を話したこともあった。
緩和ケアかホスピスに行く話が進む中、年末になり、新しい年が明けたある日、挨拶だけでもと思って突然訪れた玄関にいつもとは違う紙が貼ってあった。
2階に寝ていた彼女が荷物の配達の時に降りられないので、それ用にいつもあった貼り紙が、通夜と葬儀の連絡に代わっていたのだ。
それを見たとき、「これでやっと楽になったね」と思う気持ちと「治るって信じていたのに」という矛盾した気持ちが同時に湧いてきた。
次の日、彼女を慕っていた友人と共に葬儀に参列し、静かに見送った。
雪がちらついていた。
彼女の話をしながら、その友人はずっと泣いていたけど、私は何故だか一度も涙は出なかった。
悲しくないわけじゃない、寂しくないわけじゃない、何かが浄化しきれないのかわからないまま、時間だけが過ぎていく。
そんな時に、たまたま年末に予約していた「悼む人」が手元に届き、読み始めた。

「この方は生前、誰を愛し、誰に愛されたでしょうか? 誰かに感謝されたことがあったでしょうか?」
そう問いかける悼む人に、私ははっきりと言うことが出来る。
彼女は、家族やたくさんの友だちに愛されていたと思います。
いやなことがあっても一生懸命それを許そうとしていました。
時には、許せない自分を責めたりもしていました。
いつも美味しいお弁当を作ってくれて、みんなが喜ぶことが嬉しいと言っていました。
何かしてあげると関西訛りの「ありがとう」という言葉を笑顔で言ってくれました。
経験出来ないようなことをたくさん見せてくれました。
正直に自分の心も見せてくれました。
私も、彼女が好きでした。
「死」によって変化するような関係は終わってしまったのかもしれないけど、私が忘れない限り、二人の間に確かにあった関係は永遠に続く。
誰でもない、私自身が思えばすぐに彼女は私の中に現れ、いつでも微笑んでくれる。
そう思えた時に、やっと「悼む」という意味がわかった気がした。